忘れられない一言(#1)



●はじめに

 ゼミ生の書いたエッセイを小冊子にまとめる試みは、去年六月の『十年後の私へ』が初めてであった。ここにまとめた『忘れられない一言』は、エッセイ集として第集になる。ゼミでは、マクロ経済学、日本経済を学んでいる。とうぜんのことかもしれないが、エッセイで語られる話題を、ゼミの時間に取り上げることはない。ゼミ合宿で夜遅くまで、〈オシャベリ〉することはあっても、自分の体験を反省しながら〈語る〉ことは少ないように思える。でもエッセイには、ゼミ生が、それぞれの二十年ほどの人生の中で得た大事な経験が綴られている。本当に忘れられない一言は、自分の心の奥に留められているかもしれない。とはいっても、このエッセイ集におさめられた文章をお互いに読むことをつうじて、普段と違ったゼミ生同士の〈交流〉ができれば良いと思う。(良) □

●私の忘れられない一言は、ひとつだけではなく二つあります。まずひとつめは、「技術は二流たれ、されど精神は一流たれ」という一言です。そしてふたつめは、「夢なき者は去れ」です。これはふたつとも、高校の時の部活のクラブハウスに大きく掲げられていたものです。ひとつめの言葉は、初めて聞いたとき自分自身を見つめ直すことができました。私は、高校を選ぶときにその基準をただ野球の強さだけにおき高校を決めました。だから、ただひたすらに練習をして、技術のみさえ向上すればよいと思っていました。それが、中学校の頃の私のもっていた高校野球のイメージでした。しかし、そうではなく技術というのは二の次で、本当に強いチームというのは精神が一流であるということでした。それ以来私はその一言を忘れられないというより、忘れないようにして部活を続け、いまでも「精神は一流たれ」という言葉を忘れないようにしています。
 そして二つめの言葉の「夢なき者は去れ」は、そのままの意味ですが、目標(夢)を持たずただなんとなく過ごしていては駄目という意味です。これも部活をやっていたときは甲子園という目標を持ちそれに向かって厳しい練習などもこなすことができました。最終的にはその目標は達成することはできなかったのですが、甲子園と言う目標がなかったらつらい練習から逃げ出しすぐに辞めていたと思います。そして三年間やりきった時の達成感はかなりのものでした。しかし、今の自分を考えてみると特にこれと言った目標もなくただなんとなく過ごしてしまっているとうのがなにか悲しくなってきます。だからこれから何か目標を見つけ、あの高校の頃のようにはいかないかもしれませんが、目標に向かってがんばってみたいです。
 この二つが、私の忘れられない一言であり、これからも忘れずに心がけていたいことばです。□

●私の忘れられない一言は、「生きてさえいれば何とかなる。」という言葉です。きっと、先生が期待していたような励ましの言葉とは少し違うのかもしれないですね。この言葉は映画『もののけ姫』の中のものです。今日、久しぶりにテレビで『もののけ姫』を見ていて、以前この映画をみたときにとても印象的だったことを思い出した。映画『もののけ姫』では「生」をテーマにしている。だけれども、この言葉は別に映画の中で多用されているわけではなくて、最後のほうで脇役の女性のセリフだ。でも、なぜか私の心に強く響いた。どうしてだろう。このエッセーを書いていく中でもう一度考えてみたいと思う。
「生きる」ことについて、私たちは普段当然のことと思っている。生きていることについて真剣に考える機会はあまりないだろう。私自身もあまり考えたことはない。私たちは生きる上でさまざまな苦労とか悩みを持ちながら、それでもやっぱり生きている。私は以前、五木寛之の『人生の目的』という本を読んだ。この本ははっきりいって暗いし、励ましてくれるものでもない。人生について、生きることについて、仏教的な考え方で淡々と書いてある。みんなに共通の人生の目的なんてないし、それを見つけられる人も、そうでない人もいる。確かに人生の目標を見つけ、自己実現できる人はすばらしいと思う。私もそうありたいと思っている。しかし、目標なんてそんなに簡単に見つけられるものではないし、その目標が自分にとって達成不可能なものであることだってある。その現実を受け入れつつ、それでも生きていくしかないのが現実というか人生なのだろう。
私自身は就職活動を目前にこれまでの自分を振り返り、そしてどんな生き方をするのかという選択と決断を迫られている。でも、本や就職課が言うようにそんなに簡単に自分の人生設計図を描けないでいる。周りをみながら不安になったり、どうしたらいいんだろうと考えてみたり・・・。なんだか先が見えないでいるけど、やっぱり普通に生きているし、これからも生きていく。その中で辛いこと悲しいことの方が多いのかもしれない。それでも、「生きてさえいれば何とかなる。」と思えれば、何度でも頑張れるような気がする。
 人生の選択肢はひとつじゃないし、自分の努力でどうにもならない運命に左右されることだってたくさんあるだろう。これから先、自分の思い通りにいかなくて悩んだときに思い出したい。「生きてさえいれば何とかなる。」生きていなければ、楽しいことにだって経験できないんだから・・・。これから半年間はきっと悩んだり、落ち込んだりすることが増えるだろう。そんな時にこの言葉を思い出していきたい。そして、こう言おう。「なんとかなるさ。」と。□

●誰にでもコンプレックスがあると思う。外見のことでも、内面のことでも、ひとつもコンプレックスなどないという人はあまりいないのではないだろうか。少なくとも私にはある。『オウエンのために祈りを』の登場人物、オウエン・ミーニーは普通に考えたらまさにコンプレックスの塊といってもいい要素に溢れた人物だ。おそらく病気なのだろうけど、大人になっても背が異様に小さく、声も変わっている。しかしオウエンは彼独特の神への信仰心から、それらにはすべて理由があると思っている。
 「神様―なぜぼくの声は変わらなかったのですか。なぜぼくにこんな声をくださったのですか。きっと何か理由があるはずだ。」  私は神様とか信仰とかには全く興味がない。だから、オウエンの狂信的ともいえる信仰心は理解できないが、「何か理由があるはずだ」というセリフを読んではっとした。それは理屈っぽいかもしれないが、すごくポジティブなものの考え方だと思ったからだ。自分がどちらかというと物事を悪い方へ考えがちなタイプだから、そんな風に考えたことは今までになかった。コンプレックスはコンプレックスのまま、あまり考えないようにしていたし、せいぜい「仕方ない」と諦めることで(ある意味)逃げていた。
 たしかにオウエンの小さい背やおかしな声にはそれぞれ理由があった。でもそれは小説だからだ。現実では理由がないことだっていっぱいある。ただ、どんなことでも(自分にとってはコンプレックスでも)前向きに捉えることでそれはコンプレックスではなくなる。嫌な出来事に遭遇したときでも、「こうなったのには何か理由があるはずだ」と考えれば少しは嫌な気持ちが抑えられる。結局は自己満足なのだが、その一言は私の視野を前向きに物事を捉えるという方向に広げてくれた、忘れられない一言である。□

●ある友人から言われた『偽善者なんだもん』この一言だったかもしれない。
この一言以外にも他の人から言われた一言で、自分の救いになったり、励ましになったり、また傷ついたり、鍛えられたりしたことは数えられないほどあったが、この一言がかなり私に衝撃を与えたことは鮮明に覚えている。高校時代一番仲良しだった子からの一言だった。
 私としては人からよく見られたいがために、良い人を演じようなどと思って接しているつもりなどさらさらなかった。だが結果的に、その友人からすれば、そう見えたのだ。自分が、そう見られていることがショックだった。今までとってきた態度が偽りだと思われていることがショックだった。自分がとる態度に自信がもてなくなった。今までの自分は何だったのか、と自分を見失いかけもした。自分がとる行動が、自分の気持ち通りに、相手にも、また第三者にも、必ずしも通じるとは限らない。そのことが悲しくて、しようがなくも感じた。自と他の壁なのかもしれない。
 私は自惚れていたのかもしれない。言葉は飾り立てれば飾り立てるほど、見せかけのものに見えるのかもしれない。うわべだけや、偽りに見えるのかもしれない。どんなに言葉を飾ったとしても、相手を心配する気持ち、力になってあげたいと思う気持ち、相手を思う気持ちが相手に伝わらなければ、何の意味もない。他人事だからあんな事もこんな事もいえる。ただその程度になってしまう。親身になると言うことは、どれだけ深いかを知らなくてはならない。相手がいまどんな気持ちでどれだけの状況なのかを。その人の身代わりになることなんてできないのだから。百パーセントわかってあげることなんてできないのだから。誰かが言う一言で、人は感じ方や受け取り方がまるで違う。百人いれば、百通りあるのだ。思い知らされた気分だった。いい人ぶるつもりなどなくても、自分の表情、言葉、態度が相手にどれだけのものを与えるのかの重みを知った。言葉一つ一つの重みを知った。
 私はその直後、言葉を選ぶようになった。相手の表情や態度を意識するようになった。人におびえているわけではない。人をうかがっているようにも見えるが、それも一理あるかもしれない。しかし、「私は自分が言った言葉には責任を持つ。」このことだけは忘れたくない。他人のことだから、すべてをわかってあげることはできないかもしれないが、簡単な気持ちで片づけたくない。簡単な言葉で片づけたくない。思いやりをもって接したい。自分が投げかけた言葉、表情、態度の、何かしらが相手に伝わればそれでいいと思う。それが少しでも相手の活力となれば、と思う。これが私の正直な気持ちだ。こういう気持ちが偽善者に見られてしまうのかもしれない。しかしこの際、それはそれでいいと思った。開き直りとも読める発言だが、そういう気持ちには自信がある。偽りがあるとは思ってない。正直このエッセイを書くことによって、薄れかけていた気持ちがより濃いものとして甦ってきた気がした□

●「大学生活というのは人生の夏休みだ。」これは、私が入学して数ヶ月が過ぎ、新しい生活に慣れた頃、サークルの先輩が私に言ってくれた言葉です。周りの人たちがどんどんと自分のやること(バイトや習い事など)を見つけていく中で、私は大学生の特権である「自由な時間」の使い方に悩んでいて、何かしなければ、とあせっていました。いきなりこの言葉を聞いたときは、意味がわからなかったのですが、その先輩はこんな風に言ってくれました。「人は時間があるときほどモノを考えるんだ。自分のこと、他人のこと、社会のこと。だから無理して時間を使おうとすることはない、『何もすることがないときにしか考えられないことがあるんだ。』でも長い人生のなかでゆっくりとした時間が作れることってあまりない。人生を学生生活に喩えると大学生活はちょうど夏休みくらいかな、あわただしく一学期を終えた生徒がゆっくり休んだり、次の学期に向かって準備をする期間、その期間をどう過ごすかによって二学期、三学期が決まってくる。だから夏休み、つまり大学生活って言うのは、とても重要な『考える時間』なんだ。」  中学、高校と部活に明け暮れ、あわただしく学生生活を送ってきた私は、目の前にあることをこなしていくのが精一杯でじっくり物事を考えると言った時間はほとんどありませんでした。そればかりか、そのことに気がついてもいませんでした。しかし今思えば、無駄な時間を過ごしたとは思いません。忙しく過ごすことで学んだ時間の大切さは私にとって大切な財産の一つです。ただ大学に入って今までとは異なった生活になった途端このことを忘れていました。
 大学生というのは子供でもなく、大人でもありません。社会に出る前のこの時間に考えなければいけないこと、学ばなければいけないことはたくさんあるはずです。その一つに自分自身を見つめることがあると思います。就職活動でいえば「自己分析」といったところです。特に他人の中で自分というのは、周りが見えなければ自分が見えません。このことは、子供の時の私にはできなかったことであり、大人になる前に学んでおきたいことであると思います。大学三年生になった今でも、はっきりとわかりませんが、あの一言を聞いて考えるべきだと気がつきました。卒業する前には答えを見つけたいと思います。
 この言葉を教えてくれた先輩は、今、立派に夢を実現し、社会の役に立っています。自分にいつも自信を持っているその姿は、私にとってとても眩しく見えます。私もあのようになれるように、『考える』ということをキーワードに努力をしていきたいと思います。
□二十二年しかまだ生きていないが、自分の人生を振り返ると忘れられない言葉はたくさんある。親から、先生から、友人から、彼女から・・・。今思い出すと、どれもこれも当時の状況が鮮明に思い浮かんでくるし、懐かしいものばかりだ。でも、なぜだろう。俺は悩みなんか無縁の十代を過ごしてきたせいかな。当時、言われた時に僕の心をわしづかみにした言葉はなかった。もちろん、この年になって、よくその言葉を咀嚼すれば、全てが俺のこれからの教訓となり得るものばかりなのだが。  今、二年生をやっているが、来年は二十三歳になる。最近は、やはり十代の時とは違い、少しだけもの事を真剣に考えるようになった。同い年の友人たちが就職活動で東奔西走しているなかで、「将来、何しよう」なんて、つい最近までのん気に考えていた。かっこつけるわけではないが、やはり一度きりの人生、自分のやりたいことに没頭し、自身常に輝いていたいものだ。しかし、人生そんなに甘くもないかな、ということもわかりだしてしまった。よく大人が「夢で飯が食えるか」なんて言うのを耳にしたことがあるが、そんな寂しいことを言う大人だけにはなりたくない、と思ったものだ。年をとるにつれて夢が狭まっていく、そんな将来だけは歩みたくない。こんなことばかり書いていると、よほどの大志を抱き、充実した日々を送っているのか、と思われるかもしれないが、俺はダメ大学生のモデルみたいな青年だった。しかしだ、ここ一年間ぐらい将来について悩んでいた俺の目を覚まさせるには、彼との出会いは十分だった。
 彼のことを知ってもらうために彼の経歴を簡単に記す。彼は今年三十七歳で初めてメジャーリーグにデビューした野球選手だ。初登板のマウンドでは、涙が止まらずになかなか第一球が投げられなかった。パン屋せがれだったジョーは大学野球からドラフト十五位でオークランドアスレチックと契約、プロ生活をスタートさせた。しかしマイナーでは成績がさっぱりあがらず八十六年に解雇されるのだった。しかし彼は野球のできる土地を求めて台湾、韓国、メキシコ、様々な国を歩き回った。そう、すべては夢のメジャーのマウンドに上がるために。
 しかし彼は運にも見放された。台湾での三年間は先発投手として四十五勝を挙げる大活躍。再びメジャーから声がかかり、日本で言う二軍のトリプルAに所属した。だが、ここで肩を故障し、手術。チームには解雇された。しかし彼は腐らなかった。九十七年には野球ができないため、デパートの倉庫でフォークリフトのアルバイトもした。妻は子供を連れて去った。しかし彼の術後のトレーニングにより、球速は百五十キロを越すようになっていた。それが評価されて、今年一月、再びアメリカから声がかかり、二〇〇〇年の五月、ジョーはついに三十七歳にしてメジャーデビューを果たしたのだった。
 俺がこの記事を目にしたのは、忘れもしない去年の七月一日の『朝日新聞』だった。なにげなく、いつもどおりに読んでいてこの記事に出会った。感動した。とにかく感動した。それと同時に情けなかった。自分は何やってんだろうって。俺にだって夢はあった。でもそれは見るだけの夢であって、叶えようとはしたこともない夢だった。もうとっくに諦めていた。二十二歳から夢を叶えようなんて遅すぎるよ、って。自分の可能性を自分自身で摘み取っていた。そりゃあ、人生何やっても、どうりでつまんねえわけだ。  最近の俺は変わった。ラストチャンスで夢に向かってがんばることにした。正直、だめかもしれないと思うこともある。不安にもなる。でも今は振り返る時ではないような気がする。立ち止まる時でもないような気がする。何かを掴んでいればいい。それが何か、今はわからない。でもジョー・ストロングのように「忍耐、努力」、この汗臭い二つの言葉を胸に、色々なことに挑戦していきたいんだ。ん、僕の忘れられない一言、そうもちろんジョーの一言。「僕は神に運命をゆだねたんだ。自分が可能な限りの努力をして、後は神様の作った時間割に従うだけだね。」

●「忘れられない一言」という題でエッセイを書くことになっても、私の忘れられない一言として、すぐ浮かんでくるものは何もなかった。それは、私にとても重要な意味をもたらしたという、堅苦しい何かでなくてはならない気がして、頭の中の記憶を一生懸命探ってもなかなか浮かんで来てくれはしなかった。また、せっかく浮かび上がって来た過去の一言も「忘れられない一言」という題には、ふさわしくない気がして、もっと他を探すというのを繰り返した。そこで、「忘れられない」とまで忘れていないわけではないが、大きく影響を受けた大切な一言や、なぜだかは解らないが頭にこびり付いている一言を「折に触れてよく思い出す一言」として、自分流に気楽に捉え直して考えると、多くのことが浮かんで来てくれた。
 なぜ忘れられず記憶に残っているのか不思議な一言として、その時の背景まで鮮明に、よく思い出すものをひとつ挙げると、私が小学校の低学年で転校した時に、初対面として会ったその瞬間に女の子達に囁かれた「何、あの声」という一言だ。その言葉のニュアンスとしては、新入りの存在に対してのいじめのような、嫌味が感じられたが、この一言に私は傷付いたと言うより、純粋に驚いた。その驚きとは「あれ。私の声は変なの。」というものだ。自分の中で感じている自分の声と、実際に他の人に聞こえる声では、誰しも差があって自分の思うものとは違っているのだろう。
 例えテープなどの録音機械を使っても、自分の生の声とは決して聞く事のできないものである。その様な、身近過ぎるほど体の一部の事なのにつかみきれない不思議さが、私にとってこの言葉のインパクトを強め、記憶に残る原因になっている気がする。  この様な事を書いていると、私の声とはどんな物なのかと興味を持たれるかもしれないが、最近の私の声は男性のように声変わりをして、普通の範囲におさまりつつある様だ。実際に幼い頃のビデオを見ると「ガラガラ」と表現するのがぴったりの声を私は発している。けれども、部活で声出しが仕事だった中学の頃が、ガラガラ声のピークだった様で、中学の頃の友達に会うと声が変わったと言われる事を思うと、自分ではあまり実感できないが、やはり私の声は落ち着いてきているのだろう。しかし電話で、弟の友達や両親にまでも一応男である弟と間違われる時は、少し心配になってしまう。
 また、大切な一言としての「忘れられない一言」は、私が高校生の時に、好きで自分から始めたはずの物をやめるという挫折を感じた時に、コーチから言われた一言で、「何でもいい、他人からはどう思われる物であってもいいから、いつも一生懸命になれるものを持っていろ」という一言だ。これは、本当に素直に受け入れることができた一言で、自分が怠け過ぎている時に頭に浮かんで来ては、立て直す薬になってくれている。そして最近はこの言葉を思い出すときに、言葉の内容の他にもう一つのプッレシャーを感じるようになった。というのも、この言葉をかけてくれた時のコーチの年齢に自分もあと一歩でなるのだが、自分は、それだけ人に影響を与えられる中身を兼ね備えてきたのかと考えさせられてしまうのだ。
 ここまで、自分なりの「忘れられない一言」について書いてきたが、「一番」とつくような、自分の中での本当に大事なランクの一言は、正直に言うとこのエッセイでは書けなかった。忘れられないほど、本当に自分を傷つけられた一言や、自分に絶大な影響を与えた一言は、ありののまま過ぎる自分をさらけ出してしまう様で恥ずかしいと感じる思いと、人に話す事で再び傷ついてしまうという思いで、あるランクの一言を挙げる事になってしまった。けれどもこれは私だけではなく、みんなも同じであろう。  大事な一言とは、自分の中で、その言葉と同じくらい大切な相手にしか話せないものだと私は思う。

●あれは高校一年の夏、まだ入学して間もない頃だった。あの時のことはまだ鮮明に覚えている。私は硬式テニス部に所属しており、毎日ハードなメニューを週六日こなしていた。よほどの用がない限り休めず、もちろん休まず、テニス漬けの毎日であったのだ。
 大学生になった今思うと、よくそんな時間と体力があったと自分に感心してしまう。
 そして、そのような日々が四ヵ月程経てからの初めての合宿でのこと・・練習は普段の練習の何倍も何百倍(大袈裟かもしれないがあの時はそう感じた)も厳しく、圧倒された。、水はバケツの水しか飲んではいけなくて、その水はコートに置いてあるため、ぬるくてボールや砂等入ったりしていて汚い。ボールはダッシュで取りにいかなければならないし、コートにお尻を向けて取りに行ってはいけない。声出しも途切れてはいけないし、大声で言うだけではなく心を込めて言わなければならない。そのような中で、トレーニングでも走らされたりしたから余計きつく感じたのだろう。やっと合宿にきて打つことを教えてもらえるのに、うまくなりたいという気持ちより休むことばかりを考えていた。
 最もキツイと言われるトレーニングの時、私はついに諦めてしまった。そのトレーニングの内容とは、コートの真ん中から走っていってラケットで一回ネットをタッチし、どこに飛んでくるのか分からないロブのボールを追いかけていって反対のコートに打ち返し、入らなかったらコートを一周するというもので、それを十五本くらい連続でやるのだ。私は疲れ果て・・ついに「もういい。」と思ってしまい、ネットにタッチはしたもののボールを追いかけず、頑張って走れば絶対追いつくボールも諦めてしまった。早く休みたいあまり、みんなの応援が遠くなり、足元がふらつき転んだまま立ち上がらないでいた。その時、普段無口で冷静かつ沈着な先輩が「海野!妥協しないで!」と必死に私に向かって言ってきた。その言葉はまさに私にピッタリで、とても衝撃があった。妥協という言葉は普段でもよく聞くけど、こんなに重く感じたのは初めだった。私は我に返り、あのあと泣きながら残りを頑張ったのを覚えている。
 私は自分に甘えていた。そのたった一言で気付いたのである。妥協とは、「対立する意見をお互いが譲り合うこと」・・私の中では、「うまくなりたいから辛くても頑張ろう。」という気持ちと「疲れたからもう動きたくない。」という気持ちが対立してたのである。それで結局前者が負けてしまったのだ。
 あの時、「大丈夫」と言って私を甘やかさないでくれて良かった。厳しくしてくれて良かった。あの、最も辛くてしょうがない時に言ってくれたからこそ私にとっていい刺激になったのだろう。おかげで、三年間部活をやり遂げることが出来たのだ。
 しかし最も重要なのは、それから自分がいかに頑張れるか、弱気な自分から脱出し変われるかだと思う。いくら刺激を受けても我に返っても、その時そう思ったとしても今、そしてこれからでも少しでも進歩しなければ意味のないことだと思う。その先輩の一言で今までテスト勉強の時や大学に入る時助けられてきた。けれども、やはりまだ自分に負けてる部分がたくさんあると思う。私は自分を苦しい状態にしてから這いつくばっていると思う。私はいつか、その先輩の言葉なしでも何にでも乗り越えられるような、強いじぶんになりたい。そして自分に余裕が出来、精神的に強くなって、前の自分のような弱くて自分の意思が弱い誰かに出会ったらその言葉を言ってあげたいと思う。でもそれはまだまだ遠い話になるだろう。だから、私はこの言葉を一生忘れないと思うし、忘れたくないのだ。□

●ぼくにとって忘れられない一言をひとつあげるとすれば、それは、「泣くことは一人でもできるけど、笑うことは一人ではできない。本当に笑うには仲間が必要だよ。」といわれたことです。僕は小学六年生の時に中学受験をしようと考えていました。そのころ、勉強しなくてはいけないなぁと思っていて友達と遊ぶことを忘れて、ずっと家にいました。勉強のためにと思って家にこもっていたのですが、勉強していてもすぐに飽きてしまい一人でゲームばかりやっていました。そんな時に一緒に暮らしている祖母がこの言葉を言ってくれました。「家の中でゲームばかりやってないで外に遊びに行きなさい。そんなことばかりやっていると友達がいなくなって一人ぼっちになっちゃうよ。一人ぼっちになったら毎日の生活がつまらなくなっちゃうよ。毎日の生活がつまらなかったら損でしょ?ひろちゃんがそんなふうになって自殺なんてされたらみんながつらいでしょ?つらい時一人で泣くことができても笑ったりできるような楽しいことは一人じゃできないよ。おばあちゃんはそういうことのほうが何よりも大事なことだと思うよ。」祖母はこんな風になっているぼくを心配していってくれて言ってくれたのであろうと思うが、今考えるとぼくの今のこの性格はこの時に言われた言葉が少し影響しているのかなぁと思います。その後、ぼくは同じ学校を受験する友達と同じ塾に行って勉強することにしました。いつのまにか楽しく勉強するっていうことを覚えました。結局ぼくとその友達もこの中学受験は落ちてしまって残念でしたが、中学生になってもその友達と遊んだり一緒に塾に行って楽しく勉強していたのであまり勉強がつらいと思わずにできたので、あまりがんばったという感じがしなかったのだが成績はずっといいほうでいられました。おかげで高校受験の時、第一希望の学校には入れませんでしたが、第二希望の学校に入れたのでこのことを考えてみてもこの祖母が言ってくれた一言のおかげなのかなぁと今になって思います。その後、高校生になったぼくは、そんなことを忘れて部活に没頭する毎日を送っていました。そして、いつのまにか三年生になって、部活も引退し、受験勉強を始めたころ、ぼくは、部活のおかげで朝早く起きる生活に慣れていたので、学校は九時から始まるのですが、毎朝七時前には学校に行って勉強していました。家が近かった陸上部の友達がつきあってくれたので毎日楽しく学校にいけました。部活の先輩がつらいと言っていた受験勉強をこんなに楽しくできるのは仲間がいるからなのかなぁと思いました。そのときにもこの言葉を思い出しました。このときまでは何も考えずに生活していましたが、そうだ!こうして仲間がいるから、仲間と一緒だったらつらいことも楽しくできるんだと確信しました。その後、受験勉強を始めるのが遅すぎたためか、大学受験は四校受験して全部落ちてしまいました。模擬テストの成績がいつも三十前後だったのであたりまえかもしれなかったですが、次の年、浪人したのですが、気持ちを入れ替えて、予備校の仲間と一緒に楽しく勉強に励んだおかげで模擬テストの成績もぐんぐんあがって、時には偏差値七十を超えるようにもなりました。こんな感じで仲間と楽しく勉強していたおかげで、現在、法政大学の学生でいられるのであろうとおもいます。つまり、この言葉がなかったら今、この佐藤ゼミにもいないかもしれないし、この学校にもいないかもしれない。この言葉がなかったらいまのぼくはいないだろうと思います。□

●人には人生の中で「忘れられない一言」というものがあるかと思いますが二十年程度しか生きていない僕の人生の中にもいくつかあります。僕の場合はあまり悪い意味で心に残ったということはないというか実際に悪い意味では記憶にないので良い意味の方での「忘れられない一言」だけのようです。特にその言葉は新しい自分を発見できた、自分の考え方が変わったという契機になっている場合が多いです。ここではそのうち二つの言葉を書きます。
 一つは中学生時代に担任の先生から言われた言葉です。それは僕が文化祭実行委員でクラスの人をまとめてクラスの創作物を作っていた時です。その僕を見て当時の担任の先生が「これが梅ちゃんだよ!」と突然言ってきたのです。最初は何のことかと思ったのですがそれは僕が上手くクラスをまとめて行動していたことに対する言葉だったのです。他人から見ればそんなことがなんで心に残るんだって思うかもしれませんが、当時の僕は自分の取り柄や長所で自覚していることなどほとんど無かったのでその瞬間は嬉しいと言うより予想していなかったことを言われた驚きの方が強かったのを覚えています。もちろん後で嬉しい気持ちも湧いてきましたが。ほんと些細なことですがなぜか心に残った一言(出来事)でした。先生が意図して僕に気づかせようとして言ったことなのかはわかりませんが、ふとした一言から自分の意外な一面を発見できたのは良かったと思います。
 もう一つは以前ベストセラーにもなった本の題名でありその文中の言葉でもあるのですが「小さいことにくよくよするな!」です。もちろんその表紙を見ただけでその言葉が忘れられない一言になったわけではありません。本を読んでいない時点では漠然とした言葉にしか思えませんが読み終わるとそれが色々とひっくるめられた含蓄のある言葉として感じられたのです。その本の文中にも「人は心のもちようで人生を変えられる」とありますがまさにそれを実感できるものであったと思います。その本とは書店でふと目に付いたことで出会いました。まあベストセラーだったから目に付いたというのもあると思いますが。些細なことを気にしてストレスを溜めてしまうと言うのは特に日本人に言える特徴ではないかと思うのですが以前は自分も例外ではなく文字通り小さいことにくよくよしたり、イライラしたりしていました。今思えばなんであんなことをいちいち気にしていたんだろうと馬鹿馬鹿しく思えることばかりです。そんなことで人生の楽しみを減らしていたと思うと勿体無かったなという気持ちさえ出てきます。これのお陰でストレスが溜まることも少なくなり随分と生活が変わったように思います。簡単に言えば楽天主義、プラス思考になったと言うべきでしょうか。この「小さいことにくよくよするな!」という言葉は正に僕の忘れられない一言であり今では座右の銘の一つでもあります。
 これらとは別に最近の一部の若者たちに当てはまるような心に残った一言があります。それは中学校時代の修学旅行のあとの反省会のときでした。先生がある生徒の作文を匿名で読み上げてその中に「悪いことをすればかっこいい、校則は破るためにあると思っている人達が多い」とあったのです。これは修学旅行でルールを守らずに行動した生徒に対する言葉だったのですが、この言葉を聞いたときは正に核心を突くような言葉だと感心したのを覚えています。同時に自分にもそういった考えがなかったわけでもないのでよく考えれば馬鹿げた考えだったなと恥ずかしい思いにもにもなりました。まあ自分も若かったせいもあるのでしょうが。今思えば悪いこと、ルール違反のことをしてしか目立てないというのもなんとも惨めなことです。もっと自分の得意なことなどで目立ってこそかっこいいし、他人の支持も得られるというものです。今の一部の若者にもこういうことに気づいて稚拙な考えを改めて欲しいと思っています。□

●私の忘れられない一言は高校一年の時に父に言われた言葉です。
 その言葉を聞くきっかけは高校一年の時の吹奏楽部への入部です。
 私は、まったくの初心者だったのですが「経験がなくても大丈夫」と先輩達に言われて なんとなくいい思っていたので、軽い気持ちで入部してしまいました。けれど、いざ入ってみるとほとんどの人が経験者で、初心者は全体で私を含め三人ぐらいでした。
 私が所属していたのはパーカッションという打楽器のパートでしたが、そこは他のパートの様に音符を見て演奏するのではなく拍を数えて打つところです。なので余計に経験を必要とするパートだとすぐに実感しました。小さいころにピアノを習っていたので音符を読むのならまだついていけたと思うのですが、拍の数え方なんてすぐに出来るものではありませんでした。しかも、このパートは他のパートと合奏して初めて、曲の感じが分かるパートです。そのため普段の練習は楽譜をみて楽器を割り振って、軽くリズムを掴んでおくだけです。初心者の私は、もちろんそれだけでは理解など出来るはずもありません。先輩達は中学からやっていた人ばかりなのでなんで出来ないのか分からない、という感じでした。
合奏の時はいつも緊張していました。間違った所で叩いたらどうしようとそればかり考えていました。そのため上達していくというより、疲れていきました。それでもなんとか初めての定期演奏会には出ることができました。その直後はみんなで演奏することの楽しさを実感し、これからも頑張ろうと思いました。しかし、日が経つとそのやる気は無くなってしまいました。 部活の事を考えただけで憂うつでした。
中学の頃は運動部でテニスをやっていました。その時はみんなが初心者だったので、置いていかれているという感覚はまったくありませんでした。みんなが上達してきて技術の差を感じても、部活が嫌なんて思ったことはありません。たぶんそれはテニス部の仲間が本当に気が合っていい子たちだったというのもあるし、テニスが上達するのが楽しくて仕方なかったからだと思います。  吹奏楽もやりたくて入ったはずなのにそこに面白さを見出せなかったような気がします。それに、同じパートの同級生とは気が合いませんでした。というより、どこかで中学のテニス部の仲間と比べていたのだと思います。そんな風に自分で自分を追い込んでいた部分もありました。それで、ますます部活が辛くなっていきました。けれど、当時の私は悪い意味で真面目だったので、練習を休む事もためらわれて毎回しっかり参加していました。そのため余計に辛くなっていました。
 しだいに「辞めたい」と思い始めましたが、なかなか口に出せずにいました。そんな時父と二人で食事をする機会がありました。私は初めは躊躇していましたが、思いきって言ってみようと決心し、この話を切り出しました。本当に辛くて、辞めたいと思っていることを懸命に伝えました。その頃の私は、自分で決めてやり始めたことを途中で投げ出す事は最低だと思ってきました。なので、自分が辞めたいと思っていることが情けなくなって泣いてしまいました。その時、父が「時には諦めるっていうことも勇気だよ。」と言ってくれました。私はその一言で辞めることを決めました。次の日私は部長に退部を伝えに行きました。当時の私はあの言葉を、単に退部を認めてくれたという意味で受け取っていましたが、今はもっと深い意味があるのだと分かってきました。
今でもいろいろな事で挫折やつまずきを感じます。そういう時はこの言葉を思い出し、諦めるという言葉を離れると考えて、少しその問題から距離を置きます。そうすると自然に自分の方向性みたいな物が見えてくるような気がしています。人間関係で辛くなった時もその人から少し離れてみます。そうするといい付き合い方が分かってきます。社会に出ればもっといろんな事で悩むと思います。でも、きっとそう言う時この言葉を思い出せば、自分はどうすべきなのかが分かってくるような気がします。この言葉を思い出せばどんなに落ち込んでも必ず立ち直れると思っています。
この言葉は私にとって忘れられない大切な一言です。□