十年後の私へ



●何だか先が見えない。今、十年後の自分を想像してもはっきりとした実態が見えてこないのだ。来年私は企業に就職する。社会人としてどのような道を進んでいるのだろうか。学生としての立場からは、まだ社会人として働く自分の姿が見えない。一寸先は闇と言う表現が適切かもしれない。学生時代と違って、社会に出るということは今まで経験したことのない未曾有のものであると感じる。
大学に入る前の私も、今と似たような心境であっただろう。高校時代とはまったく違う大学生活に胸おどらせていた。しかし、不安もあった。この先に何が待っているのか、想像もつかないことだった。しかし、今振り返ってみると、自分なりに大学生活を充実したものにできていると思う。様々なことを経験し、高校時代とは違った観点も身につけることができたと感じる。経験した事の無いことには誰もが不安を感じるもの。しかし、経験してみなければ分からないことがある。十年後の私も、それまでの経験を活かし、今より人間的に大きくなっていたい。
現代の社会は変化が激しい。就職活動を経験してきても実感できる事だ。情報化が進展し、世界全体がグローバルに展開されつつある。私は社会人としてその変化に柔軟に対応しながら、企業の中で一人の人間としての実力を発揮していきたいと考えている。今まで私が経験してきたこと、感じてきたことが私の個性であり、それを全面に出して仕事をしていきたい。おそらく社会に出ることは、学生時代とは全く違う厳しい世界であろう。十年後、私がその厳しい社会の中で埋もれずに、自分の進むべき道を模索しながら、常に前を向いて進んでいることを願う。□

●十五年後、私は教師になろうと思う。しかし学生の身分の延長線で今教師になるのには違和感がある。というのも生徒も精神的に幼ければ、先生も幼い、親も幼いという状況はとても危険だと感じているから。また私の性格で、このまま教師になってしまえば「自分が一番」という風に「てんぐ」になってしまうだろう。そうでなくても教育実習中「先生、先生」と呼ばれ、性格が偏りそうになった私。
 いつ死ぬか分からないけど、社会に出て色んな体験をして社会の常識や矛盾を学んだ後、赤ちゃんを産んで、教師になるのが将来設計である。教育実習を通して分かったことがある。それは、教師というのは心身共に大変な仕事だけど、それに見合うだけの充実感があるということ。本当に素晴らしい職業であるということ。教師になるために、もう少し器の広い人間になりたい。□


●小学生の頃の私は、早く大人になりたかったし、『女子大生』という言葉の響きやイメージに憧れていた。だから、『十年後の私』を想像することは楽しかった。
 それがいつのまにか『老化』のイメージに変わってしまったのだ。現実に大学生になった今感じていることは、以前より体力が落ち、お肌は曲がり角にきて張りがなくなったことだ。このままいけば三十歳では完璧に『おばさん』になってしまう。本音をいえば憂鬱でたまらない。
 しかし、最近年齢や体力が『おばさん』といわれる人でも、自分の仕事にやりがいを持って頑張っている人は決して『おばさん』ではないと思える記事に出会った。今、ドコモの携帯電話といえば『iモード』が大ヒットしているが、その立ち上げに力を発揮した四十代の女性のことである。『日経ビジネス』という雑誌で紹介されていたのだが、その女性は三十代前半に二つの雑誌の編集長を勤めていた。三十一歳のとき『ある赤字媒体の雑誌を黒字化せよ。ついては二十人で作っていた雑誌を編集長一人で作れ。』という、とんでもない仕事をこなした。また、三十三歳のとき類似雑誌と競合して自社の雑誌を守り抜いた。この二つの修羅場経験が自信となり、その後NTTドコモへ転職した際の成功に繋がったという。この女性の場合、三十代は将来への可能性への準備期間であったのだ。
 十年後の私はどこで何をしているだろう。どんな人々に囲まれ、何に喜びを感じる人になっているだろう。今はわからないが、いつも前向きに、そして辛いことがあっても乗り越えて、それを自信に変えることができる人間になっていたいと思う。少し、十年後が楽しみになった。□


●十年後の私・・・一体なにをして、どんな風になっているのでしょうか。状況だけ考えれば、バリバリのキャリアウーマンになっているかもしれないし、結婚して家庭と仕事をばっちり両立しているかもしれません。いいえ、もしかしたら専業主婦になっていて(今はあまり「そうなりたい」という意思はないですけど・・・)子育てに追われているかもしれません。
 ただ、ここでどうしても私が考えてしまうのは「むかしの私だったら十年後というともっといろいろな理想(夢)があったな」ということです。悪く言えば、どんなことにも無知でどんなことにも手を広げようとしていたということかもしれません。反対に考えると、(無知だからかもしれませんが)現実に屈することなくいろいろ理想や夢をもっていたのかもしれない、とも考えられるような気がしてなりません。以前程無知でもなくなったと思うので、むかしのような十年後の理想を持つのは難しいかもしれません。でも現実を見据えた上で妥協することなく(程よい妥協?)しっかりとした理想というか、野望をもって生きたいと思います。
 ところで私の十年後の理想ですが、(職業や周りの状況は別にして)マイペースに生活していきたい、ということです。なかなか難しいとは思いますが、周りに流されすぎずに、かといって現実逃避することがないようなちょうど良いバランス感覚をもって生活していたいです。これが実行できていれば相当カッコイイ十年後の私になっているはずです。そのためにも、今から理想をもって前向きに行こうかな、と思いました。□


●この題はわたしにとってかなり考えさせられる題でした。自分の夢というものがはっきり固まっていない今、恥ずかしいことながら将来の自分が思い浮かばないのが正直な現状です。しかしあえて想像してみるというより理想をあげるならば、放浪の旅をだんなさんとできたらと思います。いろいろな国を転々としいろいろな文化や人(民族)に出会い未知の世界でいろんなことを感じてみたいのです。
在学中に一年留学を考えているので一年留学したと仮定して卒業するときは二十三歳、放浪の旅にはお金が必要であるがため、資金集めとして就職し三から五年後に退社し旅に出たいですね。旅から帰ってきてからのことは今のところまったくの未定です。けれど旅から帰ってきたわたしはきっと大きくなって何かを見つけているはず、と願っています。
旅の目的は、とはいってもたいそうなものではないが『素』です。誰かに気兼ねするわけでもなく、何かにおわれるわけでもなく、ありのままの自分の気持ちを出していきたいですね。そんな自分でいろいろな国をまわれたらと思います。今の日常では気づかないで素通りしてしまうようなことでも、ありがたみや感動に敏感になれるような気がします。
今のわたしは安全圏だけを選んでいるような気がします。だれしも先が見えないことは不安だと思いますが、それでも自分がしてみたいと思ったことはだれにもゆずりたくないですね。そうでなければ新しい世界なんて見えないですからね。放浪の旅は前々からしてみたい願望があったのでわたしの父にも告白済みです。反応はいまいちではありましたが、わたしとしてはぜひ実行したいです。とりあえず今は今の生活を満喫したいです。□


●私の十年後はいったいどうなっているのだろうか。最近は一、二年後の自分を想像するのが、精一杯で十年後のことなんて考える暇もなかったし、考えようともしなかった。
確か中学二年生のクラス替えの時期に担任の先生が文集を作りたいと同じような題で自分をかいたようなような気がする。そのときは文章ではなく十年後の自分を想像して絵をかいた。みんなそれぞれサッカー選手とかOL、考古学者、漫画家、プロレスラーなどいろいろな自分を描いていた。その中で私はめがねをして、本なんかを読んでボーっとしている姿を描いた。だいたいそれから十年が経ち、今の自分の状況を考えるとおもしろいぐらい当たっていて、ほほえましかった。
今から十年後は遠い未来のような気がするが、きっとすぐ経てしまうのだろう。私が想像する自分は、やはり結婚はしていないし、当然、子供のいないと思う。だからといって仕事一本でばりばり働いているということも考えられない。きっとマイペースに働きながら自分の趣味に没頭しているのだと思う.。けれど私は仕事を、お金を稼ぐ手段としているのではなく、私の夢がかなって好きな仕事をしていたら最高にうれしいと思う。どっちにしろ、あくまでもいろいろなこといついて、マイペースに取り組んでいてほしいと思う。□


●十年後の私は三十一歳。結婚もしていて子供もいるでしょう。たぶん仕事はせずに専業主婦で家事に追われていると思います。そんな私に何を伝えたらいいのか、とても迷います。
十年後の自分を想像して、まず一番恐ろしいのが老化です。最近ほんとに自分の衰えを実感するようになりました。二十歳そこらで何を言ってるんだ、といわれそうですがまだ成長期でピチピチしていた二、三年前の私が懐かしいです。運動不足のせいもあり疲れやすく、鈍くて思いどうりにならない自分の体が情けなくなります。
だから十年後の私には、何か運動をしていつも健康でいられるように心がけて欲しいと思います。せっかく体を動かす楽しさを知っているんだから、積極的にやるべきですよね。
体の衰えはしかたのないことですが、それとは逆に精神的には成長し続けていきたいです。
私は大学生になって自分ではとても大人になったと思います。いろんな人に出会い多くのことを学びました。社会に出ればもっと知らない世界があります。その中で常に広い視野で物事を見て考えることを忘れてはいけません。自分が置かれている状況、立場を正確に判断し他人を思いやって生活していく、これが私の理想です。この気持ちを忘れないでいてください。
最後に今、私はとても大切な人がいます。十年後にも同じように私にとって大切な人であっても、そうでなくても、その人から教わったこと、考えたこと、笑ったこと、泣いたこと、・・・これらはずっと覚えていて下さい。十年なんてきっとすぐだと思います。
素敵な私に会うのが楽しみです。□


●十年後の自分がどうなっているのか、考えてみたいと思う。
十年後というともう僕も三十歳である。仕事もかなり板についた頃であろう。今の自分ではどんな仕事についているのか予想もつかないがきっといい仕事に就けているだろう。やっぱり、大企業だろうかというちょっと高い理想も抱いたりしてしまう。でも、実際十年後の自分がたとえ大企業に就職していなくても、小さな職場でも、楽しく安泰な仕事状況ならそんなに気落ちすることなどないだろう。周りの人と仲良く楽しく仕事ができればそれでいいと僕は思う。今からなんとしてもつらくても楽しく仕事できる職場を探さなければと思う。
 家族も築いている頃かもしれない。早いうちに結婚して子供も欲しいと思う。支えてくれる家族を持てば、仕事もきっとがんばれるからだ。子供も好きだから、絶対遊んでやりたい。そしていろんなところに遊びに行きたい。家族崩壊がささやかれている今だからこそ、子供ができたらいっぱい遊んであげたいと思う。目標としては二十五歳までに結婚できたらいいなと思っている。あと、五年のうちに見つかるだろうか。自分自身にがんばれといいたい。子供は二人欲しいなと思う。奥さんは同い年か年下かな。ちょっと高望みかもしれない。
 あと、十年後まで空手を続けて欲しいと思う。今は大学を卒業したら、小さな道場でもいいからやりつづけてみたいと思っている。長続きさせることで自分を高めることもできるのだし、スポーツを続けることは健康にもいいからだ。今の中年男性の体格にはまだまだなりたくないので、絶対続けようと思う。
 最後に十年後の自分に向けていくつかいいたいと思う。つらいことがあっても絶対に前向きに生きて欲しい。そのつらいことを家族や友達にあたってはいけない。家族を悲しませることだけは絶対にするな。あと、毎日の仕事が勉強になるのだから、適当に仕事をやってはいけない。
 こんなところだ。これを肝に免じて理想を少しでも実現できるように十年後の自分よ、がんばって欲しい。僕も今から頑張らなければ、理想を実現できないからな、今の自分自身にもがんばれをいいたい。□


●「十年後の私について」なんだか小学校の時にもこんなテーマで作文をかいた記憶があります。何かありがちですけれども、いざ考えてみるとなかなか難しいものです。
十年後ということは三十一歳になっていて、きっと今よりも少しは賢くなっているのでしょう。
その時の私がどんな選択をしているのか、自分自身あまり想像つきません。多分、二十代の女性にとって、仕事をとるのか結婚(出産・育児)をとるのかが一番大きな決断の場面だと思う。今の私はあまり結婚や子育てが魅力的なものには感じられないので、仕事を続けているでしょう。あまりにも漠然としすぎているけれども、何か専門的な仕事に携わっていたいと思う。資格を必要とするような職業もいいかもしれない。私の場合、きっと何か主張できる場がないと、すぐに飽きてしまいそうなので、自分の存在意義が実感できる職業に就いていたいなぁと思う。今、教職をとっているけれども、一度社会に就職してから、これぐらいになった時、機会があったら教員になりたいと思う。新卒では採用もないし、なによりもこんな未熟な自分が子供たちを指導していくのは無理だし、受け持たれた子供もかわいそうだと思う。大学と違って、中学校や高校までは先生の良し悪しで子供の学校にたいする思いはだいぶ変わってきてしまうと思う。だから、十年ぐらい社会で働いて、いろいろなものを吸収した人間になれたころに、先生になれたら、最高かな、と思う。 こんなことを書いているけれども、案外結婚して、子育てに追われている専業主婦をやっているのかもしれないですね・・・。そんな選択もいいかな、と思う時もありますけど、
なんだか逃げているみたいで自分としては、あんまりしたくない選択です。
十年後の私が後悔しないように今から頑張らなくては・・・・・!□


●十年後・・・三十一歳。大学を卒業して、九年(無事に卒業していれば!)が過ぎ、すっかり(?)社会人の一員として働いていると思う。十年という間には、結婚して、子供がいるかもしれないし、自分で会社を興しているかもしれないし、はたまた転職を繰り返しながら自分のやりたいことを探しているかもしれない。本当に今の段階では、十年後にはどうなっているかわからない。しかし、自分のやりたいことをやっていて、楽しく過ごせていたら言うことはない(かなりの理想論かもしれないけれど・・・)。
 そして、ここからが十年後の私への本題。十年後、仕事をするにしても、友人と何かをするにしても、大学時代に経験したことや、学んだようなことが無駄になっていないような人生を過ごしていてほしい。例えば、現在勉強している社会保険労務士の資格を取得できたら、就職活動のためだけに使うのではなく、この資格を活かせるような仕事をやっていてほしいと思う。自分から何かをやろうということが少ないほうだと思う自分にとっては、この資格を取得しようとすることは、大学生活の中での貴重な経験と学習の一つになっている。また、大学に来て初めて一人暮らしをして、初めは誰も知らない所にいたのに、大学生活の何年かで多くの友人をつくることができたということは、何よりもの経験であり、宝だと思う。やはり、人間一人では生きていけないし、大学時代の友人というのは、一生の友人になるというようなことをどこかで聞いたことがある。だから、これから生きてくうえで非常に大きなものになるのではないかと思う。
 最後にもうひとつ。十年もすると、いろいろな経験をする一方で、様々な苦労を味わっていると思う。そんな中で、自分が人間的に小さくなってしまっているかもしれない。けれど、そんな時でも自分を見失わないような人であってほしい。そして、悪いところをなくすのではなく、良いところを伸ばしていけるようでありたい。
 とにかく悔いのない人生を・・・ □


●私は今、二十一歳。十年前小学生だった私から見ればそれは十分に大人の年齢である。人の心の変化、成長というのは毎日絶え間なく緩やかになされているもではなく、一瞬にして起こるものだ。何かを体験したり、困難を乗り越えたり、あるいは新しい考え方を知った瞬間、人は変わる。
 小学生、中学生、高校生そして大学生。十年の間に自分のおかれる立場が次々と変わった。その間の様々な出来事を通じて、物事への考え方や取り組み方が少しずつ変わっていくのを感じた。環境が変わればそれに順応しようと人は努力し、それは変化という形であらわれる。決して変化イコール成長ではないが、何か経験を通して得た変化がプラスに働けば、それは成長と呼ぶことができるだろう。つまり、時計の針が進んでいくように緩やかに成長するのではなく、ひとつひとつの出来事を経験するごとに、人は成長するのだと思っている。
 十年後の自分、三十一歳になった自分をあれこれと想像することは出来るが、それはあまりにも不確かな青写真である。誰かと結婚しているかもしれない、父親になっているかもしれない。それは予想ですらなく、幾分希望を込めた想像である。ただ言える事は、十年後の私は今現在の私とは異なる部分をたくさん持っているだろう、ということだ。環境や経験が、二十一歳の私を十年かけてカチ、カチと変えていくだろう。そしてその変化が成長でありたいと、私は思う。□


●十年後と言えば、今が二十歳だから丁度三十歳ですね。このまま順調に行けば二十二歳で大学を卒業して、どこかの会社に入って、八年経っているわけだからもしかしたら昇進しているかもしれません。多分、自分のことだから分かるのだけど、とりあえずなんでもそれなりにはできるはずです。ここで問題なのはそれなりにできるということです。はっきり言ってこれは人に自慢できるというものがありません。どれをとっても自分より上がいると思っているからです。それはある意味謙虚さとしていいことかもしれないけれど、やはり一つでも自信がある人は何か違うものを持っていると思います。これは人には負けないというものをもしかしたらまだ探しているかもしれません。何かを探しつづけることは人としてあるべき姿だと言うことが許されるのなら、あなたはそのままでいいのです。ただ、長い間親のスネをかじってきて、社会人として厳しい風にさらされ、神経をすり減らしても、忘れないでいて欲しいことがあります。社会に適応していく中で捨てなくてはならない場面が必ずくるでしょう。とてつもなく大きく力強い波に押されて、自分の力ではどうしようもない時があるでしょう。そういったことをくぐり抜けて人間としてあるいは成長するかもしれません。今憧れているような「強い人」になっているかもしれません。しかし今この時言っていることを忘れないで下さい。十年後これを見たときに思い出してください。これはあなたに対する応援です。辛いことがあると、誰かに頼りたくなるし、昔を振り返って、あの時に戻れたらと憧れる時もあるでしょう。そういう時に自分の力で乗り越えられたら、こんなにうれしいことはありません。それは今のあなたならできるはずです。ただ、気を張り詰めすぎるといつ途切れてしまうか分かりません。そんなあなたの心に一滴の雫を。同じようなことばかり連ねてきましたが、伝えたいことは分かるはずです。□


●今から十年前の私が思い描いていた十年後の私(つまり今の自分)はどれだけ理想を現実のものにすることができていたのだろうか。そしてこれからの十年後の理想は私が十年前に思い描いた理想ほど現実離れはしていないと思う。それは私がこの十年間で学んだことの結果であると思う。今後十年間に私が様々なこと学び十年後の私が今の私よりも賢明になっていることが望まれる。
 また自分の理想とは別に周囲の環境も十年後の自分を左右するだろう。十年前の自分には現在の自分よりも多くの選択肢が周囲に転がっていたと思う。努力次第で何にでもなれたと思う。しかし、現在の自分にはある程度しぼられた選択肢から自分にとっての最良の道を探すようになった。だから、十年後の自分にはできる限り数多くの人生の選択肢を持っていて欲しい。
 自分のこだわりを持っていて欲しい。現在の自分が十年前の自分と大きく変わったことの要因だと思うから。自分の興味のあることは他人よりも知っていたいし、それを自分の絶対的なものとしていたい。決して妥協はせず、物事への価値を評価できるようになっていて欲しい。
 この課題が出されたときに自分の十年前に書いた文集を読んだ。そこには自分がなんにでもなれるということを自負した文章があった。たしかにあの時なら何にでもなれたはずだ。しかし、そこに書かれていたものは「社長になりたい」、「先生になりたい」、「プロスポーツ選手になりたい」といった職業に関したものだった。現在の自分にとって十年後の自分に望むものはそういった職業とかの類のものではなく、自分に内在している類のものである。仕事はお金をもらい生活をするための手段にすぎず、自分を差し置いて職業を生き甲斐にすることに疑問を持っているからである。自分がどれだけ人間的に豊かになれるかが私は大事なことだと思う。それが、仕事ならそれはそれでいいと思う。勿論、私だって与えられた仕事は妥協したくないからきちんとこなすと思う。ただ忘れてはいけないのは、それは自分にプライドがあるからであり、決して仕事を生き甲斐にしているわけではないということだ。
十年後に自分が人間として大きな存在になれることを願う。□


●お久しぶりです、お元気でしょうか。タバコの方は相変わらずなのでしょうか。そろそろ肺がんにでもなってはいやしないかと心配しております。今の自分ができないだけに、タバコをやめろとまでは言いませんが、ちゃんと定期的にがん検診ぐらいは行ってください。
 ところで、そろそろ景気は回復していますか。たぶんあなたの今いる時ぐらいから、高齢化社会を実感しはじめている頃だと思うのですが、それを吹き飛ばすぐらい景気が回復していることを祈って止みません。そうなっていてくれないと、年金制度が崩壊してしまい、高齢者をかかえている家族は負担が増大しさらに景気が悪化していくという悪循環になってしまいそうな気がします。
 それはさておき、仕事の方は順調でしょうか。まさか就職できていないなんてことはありませんよね。就職できていなければ、景気がどうのこうの言っていられる状態ではありませんからね。まあ、どんなところに就職したにしろ、大学四年間を六時間もかけて通いぬいたあなたのことですから、通勤に関してはたとえ毎日出張だとしても耐えられるでしょう。仕事がうまくいかない時もあるでしょうし、上司に腹が立つことを言われるときもあるでしょうが、その通学で鍛え上げた忍耐力をいかしてがんばってください。
 マイホームはまだ無理にしても、あなたのことですから、もう車は買っていますよね。くれぐれも無理して高い車を買ってしまってローン地獄にはまっているなんてことのないように注意してくださいね。あと、車社会もどんどん進んでいることと思うので、いくら運転するのが好きだからって、調子に乗り過ぎて事故を起こさないように気を付けてください。
 なんか心配ごとばかりつらつらと書いていたら、まるでお袋が上京した息子に書いたような手紙になってしまいましたが、とにかくがんばってください。
 それでは。□


●今思うと十年後の自分は想像がつかない。結婚しているか、していないか。仕事をしているか、していないか。よくわからない。しかし、今の自分から想像してみると、北の大地でのんびりと過ごして、生きているだろう。東京には人が多すぎるため、カントリー・ポーイの自分としては、合わない感じがする。十年後はよくわからないが、四十年後は間違いなく海外でのんびり余生を過ごしているだろう。
結局、十年後はよくわからないが、予想をするとすれば、月、火、水、木、金と職場でやりたくもない仕事をやって、土、日は、釣りか、野球か、寝ているだろう、おそらく何もおもしろみのない十年間になるだろう。 そんなわけで、これが長屋の「十年後の私」でした。□


●「みんなの十年後」

 私は、この六月に誕生日を迎え、五十歳になった。いわば半世紀を生きてきたわけだ。これからも無事に生き抜くことができれば、十年後には「還暦」である。今まで自分にとってまったく関係がないと思われてきた事が、次々と身近に迫ってくる。年齢を重ねるとは、こういうことかとも思う。大きな節目を迎え、これから十年間で果たして何ができるだろうか、と考えていた。自分の行く末を思いながら、ゼミ生たちは、自分の十年後の姿をどんなふうに描いているのかを知りたいと思った。自分の進路をきちんと見定めることができているのだろか。三年生は、就職先・進学先を真剣に考え始めねばならない時期を迎える。十年後の自分を具体的にイメージし、そこから現在の自分を見つめなおす。自分のイメージを明確にするにはただ頭で考えるのではなく、きちんと文章化するのが一番だろう。これが、「十年後の私へ」という課題が生まれた裏話である。
 与えられたテーマに戸惑いを感じた者もいたようだが、みんな現在の素直な気持ちを書いている。「将来の自分」について作文する。これは、卒業文集の格好のテーマであった。迂闊であったが、このことを、みんなのエッセイを読んで気づかされた。幼かった頃を思い起こしながら、エッセイを書いた者もいた。当然のことであるが、書かれた中身は異なっている。小学生、中学生のときに思い描かれた将来イメージはもはやそこにはない。二十、二十一歳になった現在では、自分の将来を夢のように明るく描けなくなっている\\「以前のように夢が語れない」、「選択の幅が狭くなっている」、「老化していくイメージ」というように。あるいは、結婚しているかもしれない、子供もいるかもしれない、家は無理でも車はもっているかもしれない・・・といった日常生活に密着したところでしか、十年後を語れていない。天真爛漫に「サッカー選手になりたい」、「タレントになりたい」などと言う者はいない。会社員になって、それなりの仕事をしているのではないか、という言い方に変わってしまう。
みんなが成長した=大人になったということなのだろうか。しばらく前に『就職戦線異状なし』という映画をテレビで見た。その中で印象に残った台詞がある。自分の希望する会社から内定通知をもらえない一人の学生が「入りたい会社ではなく、入れる会社を考え始めたときに《大人》の仲間入りをするんだ」と叫ぶ。もしかしたらという思いで、あるいは、すがる思いで「若者には無限の可能性が広がっている」という言葉を信じようとしたのかもしれない。でもその嘘にはもう騙されない・・・。
ここに書かれたエッセイにはこれほどの深刻さはない。子供の時のような明るさ\\それは多くの無知のためなのだが\\はなくなってはいるが、自分を大切にしながら、人間的・精神的にに成長していきたい、成長していけるだろう、との希望が語られている。多くの者が、これからの自分の将来を、「前向きに」、「理想をもつて前向きに」、「自信をもって」、「ありのままの自分で」、「マイペースで」等々の言葉で捉えている。
 純粋・潔癖であった二十歳前後の精神の有り様が、大学卒業後の何年間かの「社会経験」によって崩れてしまう。その後は、大人の世界=日常化された生を受け入れていくしかない。それ以外の選択肢は残されていないのだろうか。これが、学生時代に愛読した柴田翔の小説i「十年の後」「贈る言葉」lのテーマである。恐らくみんなも何度もこの問いに答えようとしながら、これからの十年を生きることになると思う。とりわけ女性は、男性とは違った意味での「決着の付け方」を迫られる。確かに、一昔前に比べれば、女性にたいする職業上の機会が広がっている。といっても全く平等ではないし、全く「同じ」にはなりえない。

「判らないのよ、あなたには。理屈で判っても、判らないのよ、男だから。それは真剣なんだわ、女が職業を持つってことは。それ以外に使える時間なんて一秒もないのよ。」 「私、判らないだもの、どうしていいか。あなたはいいわ、男だから。万一、失敗しても、道はいくらでも開けるもの。でも、私は、失敗したらどうなるの。私は、やはり、自分の能力を使い尽くさないで、一生を終わるなんて、耐えられないわ。」(『贈る言葉』)

少し深刻な言い方になってしまったかもしれない。みんなには、繰り返し言っているように「なりふり構わず頑張る」なんてことはしないで欲しい。というのは、「頑張る」という言葉には、今までの自分を否定するニュアンスが込められている、と思うからである。自分一人の力だけでは抗しがたい大きなうねりの中で生き続けていかねばならない。ときには、納得できないことに己を捨てて「頑張らなければならない」ことがあるだろう。そうであっても、いや、そうであるからこそ自分が大事にし続けたい《思い》となんとか折り合いをつけながら、あくまでも前向きに進んでいって欲しい。(Yoshi)