家族、仲間、・・・。
大事な人を喪ったならば、と思ってみよう。想像するだけでも、自分がどうにかなってしまいそうになる。そう思う人が多いのではないか。
家族を喪うだけでなく、同時に生活の場も消失したとしたら、どうであろう。想像を絶するという状況そのもの。戦時下であれば、想像を絶する状況が〈日常〉になってしまうかもしれないが、少なくとも現在は違う。
「3.11」から一ヶ月余り。
「がんばれ」「がんばろう」が溢れている。しばしば引き合いに出されるのが、インデペンデント誌(3月13日)。
日の丸に「がんばれ、日本。がんばれ、東北」。
“Don’t give up, Japan. Don’t give up, Tohoku” と書き加えられている。
「がんばれ」と”Don’t give up.”との間には〈ずれ〉がある。なにかにつけて「頑張ります」と言ってしまう人が多い。自分を鼓舞するために「頑張るぞ」と言うのであろうが、とても大きな喪失感をいだいている人に「がんばれ」とはけっして言いたくないし、言ってはいけない。
鬱状態に陥ってしまった人と接する時、けっして叱咤激励してはいけないと謂われている。必要なことは、「休養すること」「支えてもらえるという感覚」ではないのか。
「がんばれ」の氾濫に鬱陶しさを感じている人も多いだろう。
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