中国の高校生がアップル社のiPadを買うために自分の腎臓を売ったというニュースが報道された(『朝日』6月8日付)。
『どうしても欲しかったがお金がなく、インターネットで腎臓が2万元(約25万円)で売れると知った。』
中国の高校生が腎臓と引き替えても入手したいと熱望したiPadの魅力はなんなのだろう、といったこともあるが、「臓器売買」という事実を考えねばならない。
- 臓器売買が、ここまで「当たり前」におこなわれているのか?
- 誰が手術しているのだろうか?
- 誰が買っているのだろうか?
- 売買組織がどのように作られているのだろうか?
等々。「事実」にかかわる疑問はたくさんでてくる。
「そもそも」論で言えば、
- カネで買えないもの/買うべきでないものはあるか?
- もしあるとすれば、どんなものか?
- なぜ、売ったり、買ったりしてはいけないのか?
という問題であろう。白熱教室で有名になったM. Sandelが採り上げる問題(Markets and Morals)にもつながる。例えば、『日本で「正義」の話をしよう』(2010年、早川書房)でも「議論①: 市場に道徳的な限界はあるか?」として論じられている。
臓器売買を採り上げたが、じつは、書きたいことはここからなのです。
「知識詰め込み教育からの脱却」と位置づけられた「ゆとり教育」。いま、大学に在学している若者たちは、いわゆる〈ゆとり〉世代。
彼/女たちは、上記のような問いをめぐる議論に積極的に取り組めるようになっているのだろうか。
彼/女たちは、何に関心をもち、何を求めているのだろうか。
思考するための素養として、何を身につけているのだろうか。
最近、〈ゆとり世代〉とのギャップを思い知らされる。「私たちのことをなにもわかっていない」と言い募る。ギャップは、それほど大きくないと楽観していたが、どうもそうではないらしい。
〈ギャップの正体〉がなんなのかを考えている。
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