癒す

一仕事終えて、書棚を眺めていて、目にとまった本がある。それは、安克昌著『心の傷を癒すということ』。1995年1月30日から始まり、断続しながらも連載された「被災者のカルテ」(産経新聞)をもとに改稿・加筆されて、本書はできあがった。1996年に作品社から刊行され、2001年に角川ソフィア文庫の一冊となった。僕がもっているのは、文庫本である。

1995年1月17日阪神淡路大震災。

安克昌医師は阪神淡路大震災の現場に立った精神科医として知られるが、癌のため、2000年12月に39歳で短い生涯を閉じた。

『世界は心的外傷に満ちている。〝心の傷を癒すということ〟は、精神医学や心理学に任せてすむことではない。それは社会のあり方として、今を生きる私たち全員に問われているのである。』(p.243)

この一節で本書は閉じられている。

東北大震災から約一ヶ月。「復興」が話題になり始めている。ライフラインの復旧は、いうまでもなく急務である。だが、やはりこの時期に「社会のあり方」をしっかり考えねばならない。

たまたま、手に取ったのだが、再読しなければと強く思った。ぱらぱらページを捲ると、ところどころに傍線が残っていた。いくつかを以下に書き記す。

『大げさだが、心のケアを最大限に拡張すれば、それは住民が尊重される社会を作ることになるのではないか。それは社会の「品格」にかかわる問題だと私は思った。』(p.65)

『心の傷となる体験は、同じ苦しみや悲しみの感情をもつ者同士によってはじめて共有される。』(p.106)

『昔ながらのコミュニティは路地で成り立っている。路地を徒歩で生活できる範囲にコミュニティがある。』(p.237)

『今後、日本の社会は、この人間の傷つきやすさをどう受け入れていくのだろうか。傷ついた人が心を癒すことのできる社会を選ぶのか、それとも傷ついた人を切り捨てていくきびしい社会を選ぶのか・・・。』(p.242)

こうした文章を手がかりに「癒す」をとことんまで考えておかねばならない。

 

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「がんばれ」ということ

家族、仲間、・・・。

大事な人を喪ったならば、と思ってみよう。想像するだけでも、自分がどうにかなってしまいそうになる。そう思う人が多いのではないか。

家族を喪うだけでなく、同時に生活の場も消失したとしたら、どうであろう。想像を絶するという状況そのもの。戦時下であれば、想像を絶する状況が〈日常〉になってしまうかもしれないが、少なくとも現在は違う。

「3.11」から一ヶ月余り。

「がんばれ」「がんばろう」が溢れている。しばしば引き合いに出されるのが、インデペンデント誌(3月13日)

日の丸に「がんばれ、日本。がんばれ、東北」。

“Don’t give up, Japan.  Don’t give up, Tohoku” と書き加えられている。

「がんばれ」と”Don’t give up.”との間には〈ずれ〉がある。なにかにつけて「頑張ります」と言ってしまう人が多い。自分を鼓舞するために「頑張るぞ」と言うのであろうが、とても大きな喪失感をいだいている人に「がんばれ」とはけっして言いたくないし、言ってはいけない。

鬱状態に陥ってしまった人と接する時、けっして叱咤激励してはいけないと謂われている。必要なことは、「休養すること」「支えてもらえるという感覚」ではないのか。

「がんばれ」の氾濫に鬱陶しさを感じている人も多いだろう。

 

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今日からスタート!

“Yoshi’s Office”と銘打ったHome Pageを運営してきた。主として授業にかかわる内容をアップしてあるだけであった。日々の文章を思いつくままにアップすることはなかった。サーバーを更新すると同時に、このWordPressに挑戦してみようと思った。

どの程度の頻度で投稿できるか不明であるが、「ちょっと一息」つきたいときに雑文を綴ってみよう。

早速だが、注文してあった新刊書が届いた。佐藤忠良・安野光雅『若き芸術家たちへ: 願いは普通』(中公文庫、2011年4月)。最初におかれた「安野さんとの対話」と題された文章から引用する。

「幾度か言ってきたことですが、人間の顔はその人の表札です。そしてやはり、地位や名誉の有る無しにかかわらず、中身のある心のいい人が、いい顔をしています。身近な人や行きずりの人の中にも本物がいるということを、あらためて思います。」(p.8)

〈中身のある心のいい人〉。

二人の対話をゆったりと味わいたい。

 

 

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